普通に話がしたい。
私は実際に登校する日数が半分になった大学生。
学生の数を半分にするためにグループ分けがされるわけだが、AグループとBグループに分けられる。
つまり、私がAグループだとすると、Bグループの人とは何かの祭事、もしくはこの学期が終わるまでは実際に会って話す機会は発生しない。
ただ普通に話しがしたい。
この普通に話がしたいというフレーズは私が敬愛するゆらゆら帝国の”ザコミュニケーション”という曲から引用している。この曲は本来そのような解釈ではないが、この環境になった今の私の思いを端的に表していると思う。
大学に入ってすぐ、まだ分断されていなかったときに知り合って今も定期的にlineで話している方がいる。
しかし会って話したのはlineを交換したその当日だけだ。
チャットというコミュニケーションは実際のその人と話している気がしなくて私はあまり好きじゃない。
知り合って、それなりにこまめにlineを続けて大体半年になるが、私とその人は友人といえるのだろうか。
私は実感としてそうではないと思った。
私はその人の1%しか知らない。
いや、半年もlineをしているのでさすがに1%では無いが、しかし実感として1%だ。
あくまで情報として、その人のことは知っていることになるが、その情報は私の中では生きている気がしない。無機質で、鉄っぽいとも思う。
私はこんな関係は非常にキモチワルイと思う。
しかし、現代のSNSの勢いは凄まじく、いずれこんな関係がスタンダードになる日が来るかもしれない。非常にSFチックな話だが。
顔、名前、趣味、その他細々とした情報だけを知っている、顔を合わせて話したことのない人を「知り合い」とか、「友達」、「フォロワー」とか言って、たくさんの友人がいる気になり、必死の形相でチャットを打つ空虚な時間を費やす人が大半を占めることになる時代はそう遠くないのではないか。
チャット嫌いンの私には地獄だなぁ。
しかし実際Twitterを長いこと見ているとそんな人はちらほら見える気がする。
インスタグラムのフォロワーに価値が存在すると信じてやまない人とか、事実として相当数いる。
幸せって、誰かに認めてもらわないと感じることができない人たち。
もうよくわかんない。
弱冠脱線したけど話題のきっかけは、今日の対面授業でスクリーンに映されるたくさんの顔の中でその人が映され、あぁ普通に話がしたいなぁと思った瞬間があった。
世界中くりかえした 普通に話しがしたい。