昼過ぎ、SNSと自分の人生。
私は今朝早くに大学でよく行動を一緒にする友人から昼食を誘われた大学生。
よく思い返すと、かなり普段と違って物静かだった気がする。
無口な両者の沈黙に対して、箸は何食わぬ顔で進む昼食だった。
いつもは音楽の、専ら近頃のJPOPの話とか、最近見つけたアーティストについて話をしながらゆっくりと、実にゆっくりと昼食をとるのだが、今日はやけに沈黙が多かった。
コロナ対策からか、声すらディスタンスを保ってしまうプラスチックの分厚いプレートをゆっくりとずらし、それから彼は私に最近の悩みの話をした。
彼は言葉に言い表しにくい繊細な感情とか、ぴたっとハマる表現をするのが本当に上手だと思った。
あまり具体的にこの場で書いてしまうことはできないが、この時代を生きる若い人なら誰しもは一度通る、自分と他者についての悩みとか、それなりに色々と。
簡単に言うとSNSからくるちょっとした鬱のような。
話を聞いて、より一層SNSは悪い文明だと感じた。
アカウントなど作らず、そこらの検索エンジンのような扱いで十分なのかもしれない。
大学生になって、クラスでちょっと話しただけで交換するSNSのアカウント。
そこでは決して悪意の文脈は存在しないが、発信される情報が時に毒となる。
自分のTwitterを見返して、私のツイートは誰かの毒になっていないだろうか、と考えた。
私は誰かに認めてもらわなくとも自分が幸せであると感じることができる人間だと思っている。そこまで毒になっているツイートはしていないと思った。
しかし今日の話を聞いた感じ、毒を摂取する人は、それなりに大変そうだ。
自分を自分で幸せだと感じることができない人は、自分が幸せであることを他者に「いいね」という形で、目に見えるように変換、承認してもらう。
対象に「いいね」を渡し、対象に幸せを届ける「フォロワー」は、その投稿から多量の自慢を摂取する。
すると無自覚的に自分の持っている幸せと照らし合わせて、自分は果たして幸福なのかと感じ、そこから「フォロワー」に自分が幸せであると自慢し、「フォロワー」に「いいね」をもらう。
私はこの一連の流れの中に悪意は存在しないが、毒は存在すると思う。
その構図で「相互フォロー」とかいうのならそれはもう地獄だろう。
よく考えたら実際に顔を合わせて自慢話を声高らかに話す人は嫌われるのに、顔を合わせない媒体で声高らかに自慢してもその人は嫌われないだろう、おかしくない?
ライフハックや情報収集、くすっと笑えるエンタメ性を持つSNSだけれども、使い方って大事だな。。。
そして話は今日の昼食に戻る。
彼に私の悩みを言ってみた。
平たく言うと、私はいつ死んだって特に後悔なく、後腐れなく死ねると思う。
それでも生きていようと思う理由があまりない。
しいて言うなら好きなミュージシャンの新譜が気になるとか、ライブに行きたいと思うからで、大して立派な理由ではないと思う。
私はそれでいいんだろうか。
こんな漠然とした悩みに彼も共感してくれた。
そのあと彼は「なんていうか、人生は暇つぶしって言うし、欲望に生かされてもいいんじゃないかな。すごい長い旅をしたお遍路さんはゴールよりもその道中の暇をいかにして潰すか考えてたらしいし。」と
私としてはしっくりくる答えをもらって、良い人と知り合えたなと思った。
しっかり自分がある人と話すのは楽しいと感じた。
開設して以来の長文の記事になってしまった。
確か開設当初はできる限り雑に描くって言ったけど、その日の振り返りを自分なりに、他者に見せれるようにまとめるという作業は意外と楽しい。
しかし熱は入るけど時間はごっそり減るんだよな()